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2014.11.09 更新

牧師の言葉

教会のオジサンひとりごと。   2013-07-04  
 
 
 
 
 私は農業について何の知識もないけれど、多くの農業に携わる優しい友達から、その収穫物のお裾分けにより、少し理解できてきたことがある。それは収穫の時期 になると、あちらこちらから同種類の作物がやってくる。地中で冬を越した作物は春から初夏、香り高いしっかりと実を付けた根菜類、夏には水分を多く含む夏野菜 と季節に人間の欲する栄養素を「自然の恵み」として運んでくれる。
 ありがたいことに、その友達の暖かい贈り物に添えられた苦労話を聞き、学んだことだが・・・ 入念なお世話の後、それらは時が来ると一挙に実がなるのだそうだ。収穫に猶予は許されない。 ここまで言うと,マタイ9章の「収穫は多いが働き手が少ない。」の言葉が違って見えてくる。以前は硬直した頭で<収穫は教会が集める人々であると言う意味だ。 >としか捉えていなかった。だから以前の教会生活の現実から「収穫は少ないが働き手ばかりが多い。」となってしまう。この話の主旨からは逸れるが、収穫が少な いのは「手入れ」の不足が主な原因だそうだ。土の手入れ即ち柔らかく栄養に満ちた黒い土(栽培意図によりその逆もあり得る)、草引き、水やり、害虫駆除などは 額に汗し這いつくばって行わなければならないつらい仕事である。それ等の後、神様の豊かな光の恵みにより大収穫を得るのであって、以前の私のような硬直した石 ころみたいな観念ばかりある、かたく、水もやらず、栄養も与えることのない、草も引かない、這いつくばることなく威張ってばかりの土からは何の収穫もないこと は言うまでもない。
 話を戻すが、マタイ20章1節~15節にあるブドウ園の不思議な話は救いの特典として、よく説教をしたものだが、ここで視点を変えて、農場主の視点から見ればど うだろう。 農作物は一度にドッと出来てしまう。収穫に猶予は許されない。それを商業ベースに乗せるには短い時間にすべて採り尽くさねばならない。農場主は効率を上げる ことをもっぱら考える。どう人員動員をはかるのか、どう働いてもらうのか、どんな人々をどこから調達するか、それは、それは考えに、考る。働く人々の賃金を上 げればよく働くかもしれない。賃金をあげる。 しかし、それほど効率は上がらない。何故かというと、現在の資本主義社会では当たり前になっている、義務感のある労働は当時存在しない。賃金がある程度慎ま しやかな生活をすることが出来るほど貰えれば、それでよいので労働を効率なんか考えないで適当にやってしまう。急に思いがけない賃金が入ると喜ぶが、毎日とな ると効果はない。 それではダメなら賃金上げず、安い賃金で人が疲れたとき新たな人員を動員する。また、その人が疲れたとき、新たな人員を投入する。これが当時の効率化であっ たのかもしれない。だから、夕方が近づいた頃にも雇われた人々がいたのは充分考えられることではある。
 教会で一所懸命働いていた牧師達は、疲れておられる。それじゃ、新しい力を!と見渡せば、「私はいったい何をしてきたんだろう?」と、この私のように自問自 答を繰り返している牧師達が世の中には沢山いる。 しかし、教会のリーダーと信徒達の這いつくばるような祈りと、努力と悔い改めにより、神様が息を吹き返らせて下さった教会、即ち教会単位のリバイバもありう る。そしてまた、時代の趨勢を握られておられる神が興されたリバイバルも必ずある。、それらが作物の収穫期に似たものであるならば、確かに働き手は少ない。そ の収穫は半端ではないからだ。確かに利益を得る農場主よろしく、苦労をして育んだ霊的作物を大量に得られればそんな素晴らしい祝福はない。見返りに近いものだ。だがしかし、「育てられなかったもの」にも沢山の仕事はあるのだ。たわわに実った作物を神の倉に運び込む喜ばしい仕事だ。
 自問自答していた私にも、も うそんな暇はない。収穫の喜びを共にあずかる事が出来のるのだ。その収穫期に向かって、主なる神は、ひたすら我々に声をかけてくださっている。、「みんな!収 穫が近づいている!」「ともに働かないか?」「あなたはどうか?」「苦労して耕し、這いつくばり草を引き、汗して得た収穫をともに刈り取ってくれないか!「収穫を手伝ってくれ!年寄りなんかと言うな!年齢不問だ!」かくして、汗を流した農場主も、どう働いて良いか判らなかった人々も同じく収穫の恵みにあずかるわけだ。ともに喜び合うわけだ。またこれも不思議な話だ。
玉川礼拝説教  瓦  政 史  2013-07-04
 

 有名人にともなると見知らぬ多くの人達が、自分の友達の友達を語り、遠い親戚を語る。しかし、その人たちも、本人に会えば「はじめまして、あなたはどなたでしょうか?」と言われてしまう。「テ・テレビで見るより綺麗ですね!」なんて言うのが関の山・・・。
「主よ、私達はあなたの名によって預言、悪霊追い出し、奇跡をしたではありませんか!」と叫ぶ霊的指導者に、「私はあなたを全然知らない!不法をなすものども、私から離れていけ!」と言われてしまっ ています。霊的指導者が不法をなすもの、と断定されている。ここでいくつか解ります。まず、イエスのことを知っていて、その名によって預言のようなもの、 悪霊追い出しのようなもの、奇跡のようなものが出来ると言うことです。私には言い切る事が出来ませんから、モーセとパロお抱えの預言者の対決のようにとに かく出来たのでしょう。そして、現在も行われています。
 しかし、彼らは不法者の烙印を押せれてしまった。もう一つは、決定的な罪と言われることをしていない、人々の指導的立場にいて、それを全うした方々である。その人達が「あなたを全然知らない。」と言われてしまっている。
 これと類似した事柄が使徒の働き19章にあります。パウロの働きに目を奪われた祭司長の息子たちが、イエスの名によって悪霊を追い出して見たら、悪霊に「おまえたちは何者だ!」とコテンパンにやられた事柄があります。
 牧師、宣教師であろうと信徒であろうと、イエス様に認知していただかなければ、天の御国には入ることが出来ない!!!!!と言うことです。
 なぜそんな理不尽なことを神は許されるのか?なぜ、言われたとおりに信仰生活を履行しているのに、神に知られないで一生を終わるのか?マタイ7の冒頭か らよく読んで下さい。人を裁くのがお好きな方、愛の忠告を恨む方、預言者だが心は貪欲な方、それが見えずに大きな梁が邪魔をして自分が見えない方。いろい いろおられます。そして、愛がなんたるかを知らない方。充分に神から目を背けられる資格があります。イザヤ58に私の好む断食、要するに神様の前で受け入 れられる、行いについて書かれています。自分に金を借りた者を奴隷のように扱うな!飢えた者にパンを与えよ、家のない人を家に入れ、裸の者に着せ、親族の 世話をせよ。
 そうすれば、あなたが叫ぶと「私はここにいる。」と主は答えて下さるとあります。要は愛の行為でしょう。イエス様は愛によって律法を無効にして下さっ た。イエスの少し前の時代のレビ、ヒレルも「律法は自分が痛む事を他人にするな。後はその解説だ。」と言ったと言います。
 ですから、律法には抵触しないが、神の愛の心を傷つける、私刑、淫乱、貪欲、中傷、を心に抱くことが厳しく問われる。これが新しい律法で前より厳しい。 愛と言うのは測れないから全てに関わってくる。その愛をイエスは十字架上で「赦し」という大きな御業を高らかに歌い上げて下さったのです。愛は赦す事であ ると・・・
 マルコ12 28ー34にイエスは「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くし、あなたの神を愛せよ。」あなたの存在全てで愛せよ、これが律 法のすべてだと言われました。心は kardia 心臓の意味でもある。思いは psykhe 精神、霊魂 心理学の語原、知性 dianoia 熟考、力 iskhus 精神的な力も含む、ですが、思いと訳されているpsykheには違和感があります。これが思い、自分の思いだとカルトの危険性があります。自分の思いで人 の人生を弄ぶ大罪を犯すことに発展していきます。
 精神と霊で神の心を見極める。霊とまことで主の前に居る。思いではなく神の霊との交わりのような気がします。自分の思いではなく、主の思いが何か見極める祈りと生活。岩波翻訳グループはこの「思い」を「想い」と見事に訳しています。
 詩編のダビデも「主よ!私の内に傷ついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いて下さい!」詩編139 24 と霊の声を上げています。これが、私を含め全ての霊的指導者が叫び続けるべき声です。
 狭い門から入れ。マタイ7のイエスの言葉はまさにそれではないか!「それを見いだす者はまれだ。」とありますからその門はデーンと構えた門ではなく、天に通ずる霊の門なのです。 
教これがクライストチャーチブントの主張です!   2013-06-09 礼拝メッセージ  
 

「 神の国と人の国  」


教会を成長させようという時に、化粧品や車を売ったりするかのように、教会の人が人を勧誘し、献金高に目標を付け、あたかも販売会社のような様相で教会を建て上げようとしている牧師達もいます。
それは神の教会を建設する方法ではない。
この世の国を建設する方法です。
イエスさまは「 私の国はこの世のものではない 」とおっしゃいました。

それでは神の国はどうして建設するのでしょうか。
さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。
「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。
そら、ここにある。とか、「あそこにある。」とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
(ルカ17:20-21)
要するに、神の国が私たちの心の中にあるように、
私たちの心の中から神の国を建設していきます。
どのように心を神の国に向けていくのでしょうか。
創世記にヘビに憑依したサタンがエバに語りかけました。
「あの実を食べれば、神のように賢くなりますよ。」
エバはその事を聞いてしまいました。
思ってもみなかったことをヘビに言われて、そしてそのヘビの言うことを
聞いたのでしょうか。
実はエバは、神のようになれるのなら幸せだと常日頃から思っていたのではないのでしょうか。
その心をサタンが突いたのでしょう。
人間は自分が何を思っているかを、神様の御前で掘り下げていくことが必要です。そうは思わなくても,心の底である人をうらやんでいたり、
憎んでいたりするものです。
また、金銭や物に対するあこがれを強く抱いていることがあるものです。
その事を神様の御前で明晰に認識し、悔い改めるべきところは、悔い改めておくべきです。
そうすれば、サタンにやられてしまうことはありません。
おとり捜査というものがあります・・・
前科のある人の犯罪の可能性を試すため、おとり捜査をして、その人が犯罪をするかどうかを試します。
犯罪をする意志があればおとり捜査にひっかかり、犯す意志がない場合にはひっかかりません。
それは将来の被害者を守るためです。

私たちはいったい何を考えているのでしょう。

「天にあるわしの道、岩の上にあるヘビの道、海の真中にある船の道、
おとめへの男の道。」箴言30:19

知ることのできない道として4つの道があります。
ひらひら飛んでいるチョウチョにも,飛ぶべき道があるそうです。
人に見えませんが、自分だけにその道が見えます。
自分の心を隠さず神様の御前で細かく分析し、神様に悔い改め、清めていただくことが必要です。
悔い改めということは英語で、repentanceです。
あまり良い言葉ではありません。
もう一度牢屋に入って頭を冷やすという意味です。
しかしギリシャ語ではメタノイヤ、方向を変えるtか、方向を正すとかという機械的な意味で、悔い改めたりするような自らが頑張るという印象はありません。

世の中には多くの情報があります。
自分の関心があることをその中から選び取っていくのです。
たとえば、溢れる情報の中からギャンブルに関することや、私で言えば、お料理に関すること。
それらを不思議につかみ取っています。
さて、神様も溢れるばかりのこの情報の中で私たちに語りかけておられます。
神様のことが私たちの関心事であるなら、私たちは不思議に神様の情報をつかみ取ることができます。
神の国が私たちのただ中にあるということは、そう言うことなのです。
自分が清められて,自分の心を研ぎすまし,絶えずメタノイヤし、私たちの心を磨いていくならば、神様の意志が見えるようになってきます。
そうすることによって、神の国の建設hが始まるのです。

見て下さい!私たちの教会を!
セールスマンのようにごりごり伝道はしませんでした。
販売会社のように献金目標を立てて,信徒のお尻を叩いたこともありません。
しかし、不思議に人が集まって来ているではありませんか!
あちこちに教会が建てられようとしているではありませんか!
今日この礼拝で祈っていたピアニストが一人増えたではありませんか!これが神の業なのです!

ですから、朝令暮改のように、神の方向に素早く変えていくことが必要なのです。

 

 

 

写真: これがクライストチャーチブントの主張です! 長文ですが・・(笑 6月9日礼拝メッセージ   瓦政史 「 神の国と人の国  」 教会を成長させようという時に、化粧品や車を売ったりするかのように、教会の人が人を勧誘し、献金高に目標を付け、あたかも販売会社のような様相で教会を建て上げようとしている牧師達もいます。 それは神の教会を建設する方法ではない。 この世の国を建設する方法です。 イエスさまは「 私の国はこの世のものではない 」とおっしゃいました。  それでは神の国はどうして建設するのでしょうか。 さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。 「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。 そら、ここにある。とか、「あそこにある。」とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」 (ルカ17:20-21) 要するに、神の国が私たちの心の中にあるように、 私たちの心の中から神の国を建設していきます。 どのように心を神の国に向けていくのでしょうか。 創世記にヘビに憑依したサタンがエバに語りかけました。 「あの実を食べれば、神のように賢くなりますよ。」 エバはその事を聞いてしまいました。 思ってもみなかったことをヘビに言われて、そしてそのヘビの言うことを 聞いたのでしょうか。 実はエバは、神のようになれるのなら幸せだと常日頃から思っていたのではないのでしょうか。 その心をサタンが突いたのでしょう。 人間は自分が何を思っているかを、神様の御前で掘り下げていくことが必要です。そうは思わなくても,心の底である人をうらやんでいたり、 憎んでいたりするものです。 また、金銭や物に対するあこがれを強く抱いていることがあるものです。 その事を神様の御前で明晰に認識し、悔い改めるべきところは、悔い改めておくべきです。 そうすれば、サタンにやられてしまうことはありません。 おとり捜査というものがあります・・・ 前科のある人の犯罪の可能性を試すため、おとり捜査をして、その人が犯罪をするかどうかを試します。 犯罪をする意志があればおとり捜査にひっかかり、犯す意志がない場合にはひっかかりません。 それは将来の被害者を守るためです。  私たちはいったい何を考えているのでしょう。  「天にあるわしの道、岩の上にあるヘビの道、海の真中にある船の道、 おとめへの男の道。」箴言30:19  知ることのできない道として4つの道があります。 ひらひら飛んでいるチョウチョにも,飛ぶべき道があるそうです。 人に見えませんが、自分だけにその道が見えます。 自分の心を隠さず神様の御前で細かく分析し、神様に悔い改め、清めていただくことが必要です。 悔い改めということは英語で、repentanceです。 あまり良い言葉ではありません。 もう一度牢屋に入って頭を冷やすという意味です。 しかしギリシャ語ではメタノイヤ、方向を変えるtか、方向を正すとかという機械的な意味で、悔い改めたりするような自らが頑張るという印象はありません。  世の中には多くの情報があります。 自分の関心があることをその中から選び取っていくのです。 たとえば、溢れる情報の中からギャンブルに関することや、私で言えば、お料理に関すること。 それらを不思議につかみ取っています。 さて、神様も溢れるばかりのこの情報の中で私たちに語りかけておられます。 神様のことが私たちの関心事であるなら、私たちは不思議に神様の情報をつかみ取ることができます。 神の国が私たちのただ中にあるということは、そう言うことなのです。 自分が清められて,自分の心を研ぎすまし,絶えずメタノイヤし、私たちの心を磨いていくならば、神様の意志が見えるようになってきます。 そうすることによって、神の国の建設hが始まるのです。  見て下さい!私たちの教会を! セールスマンのようにごりごり伝道はしませんでした。 販売会社のように献金目標を立てて,信徒のお尻を叩いたこともありません。 しかし、不思議に人が集まって来ているではありませんか! あちこちに教会が建てられようとしているではありませんか! 今日この礼拝で祈っていたピアニストが一人増えたではありませんか!これが神の業なのです!  ですから、朝令暮改のように、神の方向に素早く変えていくことが必要なのです。

キリストの受難に思いを寄せて。     2014-11-09

 

大祭司カヤパの言葉・・・神の思い、人の思い。                                 ヨハネによる福音書11章45節~57節

 宗教的指導者達がイエスを指名手配し、殺そうと決心したのは、ラザロを生き返らせたイエスが 国に対して、絶対的な勢力を作り上げる恐れがあるとおもわれてきたからであった。キリスト受難 の幕開けである。 当時、時の大祭司はローマ帝国からの任命で就任するという時代である。もし国内に不穏の兆し が見えるやローマからの鎮圧軍がやってくる。自治は認められていたが、反逆は勿論許されない。 国は滅び、土地は没収される。その恐れを抱きつつ、大地主のサドカイ派の人々は穏便に穏便にと 事を荒立てずに、過ごそうとしていた。当時、ここそこでローマに楯突く血気盛んな暴徒たちが暴 動を勃発させていたがローマにお願いして鎮圧させ、イスラエルの指導者はローマに反逆する意志 のないことをアピールし続けていた。だが、この騒ぎである。 一方、資産は持たないが宗教的指導に当たるパリサイ派の人々は別の意味で恐れを抱く。「蝮の末」とヨハネ、イエスから罵倒された人々である。この人々は何よりも自分達の地位保全を旨とし た。そしてその心は神から遠く離れている。だから、何よりも神の真実が怖い。宮清めやラザロの 復活は彼らの威信を甚だしく損ねた。 実はイエスの暗殺計画は地上の財産保全と神から離れた宗教的地位保全、そしてその後ろにある、地上の王国、ローマ帝国の脅威、それらが一つの大きなうねりとなって実行に移されたのである。

 一体、イエスは何をしたというのか。天の国の到来を告げ、病人をいやし、罪に定められる ものに許しを宣言し、目の見えない人を見えるようにし、5000人以上の人々にパンを与え、 そしてラザロを復活させたのである。

「予言者を殺した町」イエスは涙を流しながらエルサレムを見下ろし、そうおっしゃられた。

 ラザロ復活の報を受け、70人で構成されるイスラエルの最高議会サンヘドリンは速やかに召集さ れ、様々な思惑が相交差して紛糾していたとき、時の大祭司が口を開いた「君たちはなにを言って るのかね!たった一人が死ぬことにより、国家が救われるのだ。そんなことが分からんのか!」 その言葉は財産保全を唱える人々にも、神を恐れ、イエスに脅威を感じ、また中には宗教者とし て、イエスに神の子キリストのにおいをかぎつけ始めていたパリサイ派の人々(現にそう確信して いる人々も居た)の不安を一掃し、今の地位の保全を方頭にイエスの処刑に賛同させてしまった。 頭のいい人の言葉である。が、神の言葉であった。将に両刃の剣である。 皮肉にも大祭司がその権威で放った言葉が神によって使われ、正真正銘の神の予言となった。 「君たちはなにを言っているのか理解していない。」と議員たちを諭したカヤパ本人が神に使われ ていることを悟っていなかった。 彼の予言したごとくに神の御心によって、イエスは世の罪を取り除く神の子羊として、全世界の 人のために死なれたのである。

 十字架の周辺の話はイースターでお話しするが、イエスの教えに耳を傾けず、財産保全と地位保 全に務め、神の子を十字架に掛けたユダヤ人たちの命運はその40年後、AD70年イスラエル滅亡と いう「実」をみのらせ、そして尽きてしまう。各地の暴動は頻発し、内紛も多くなり、イスラエル 人同士の殺し合いが起こってくる。ローマ総督が神殿の金を盗む、あちこちで不満が爆発し、遂に ローマ軍と衝突してしまう、暴動を指導者たちは押さえられなくなった。滅亡寸前の状態だ。そし てユダヤ戦争だ。 真実を訴える予言者がおこされてくるが、悔い改めるどころか異常に腹を立て、次々に葬ってし まう。それはまさしく神様の後ろ盾がない証である。その不安を打ち消すように腹を立てる。内紛 を抱えるようになる、その繰り返しが滅亡という結果を生む。何も2000年前の事ではない。 「実」というものは誰の目にも明らかなものだ。そんな事が今も近くの回りで行われている。 私たちは悔い改めに熱心だろうか?神の声に従順だろうか?悔い改めないものは神の存在を否定 し、そして裁きの恐ろしさを知らない。私もみっともない失敗をし、多くの人々を悲しませ、躓か せた。神の裁きの恐ろしさをいたいほど知った。多くの年祈り、聖書を読み直し、悔い改め、新た な世界を見せていただいた。0からの出発に神様は横にいて下さった。神の声に聞き従い、恥を証 に主を恐れて真実を語りたい。

 話を戻すがユダヤ戦争と言われる一揆によりウエシパシヤヌス率いるローマ軍がエルサレムを包 囲した。その時、前線のローマ軍は急報で、皇帝ネロの死去の知らせを受け、ローマ軍は突然の撤 退をした。それを見て、神の奇跡とユダヤ人が酔いしれる間、エルサレムにいた非戦派のクリス チャンは「荒らす憎むべきものが立っているのを見たら・・・」で始まるイエスの言葉を抱き、エ ルサレムを離れ、ペレアのペラに住みついた。パリサイ派の一部も逃げユダヤの伝統を守った。その後、次期皇帝についたウエスパシアヌスの後を受けた、その子ティトウスの容赦ないエルサレム 陥落までの攻撃をのがれたと言う、そんな話がある事を紹介しておく。

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